新島八重と日新館

嘉永6(1853)年、黒船の来航により事実上の開国に追い込まれ、幕府の権力が徐々に失われつつあった江戸末期。そこからさかのぼること8年前の弘化2(1845)年、新島八重は会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として、現在の会津若松市に生を享けました。

没後80年記念 新島八重の生涯「パネル展」

日新館では、新島八重の没後80年を記念したパネル展を開催しております。
5つの時代・切り口での紹介です。「幕末のジャンヌ・ダルク」、「ハンサム・ウーマン時代」、「女学校時代からの八重」、「新島夫婦と山本覚馬」、「晩年の八重」。
来年1月からの大河ドラマと合わせましてお楽しみ下さいませ。

新島八重相関図

“幕末のジャンヌ・ダルク”

幼少期から男まさりな性格だった八重。
裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、実兄の覚馬から洋式砲術の操作法を学びました。慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に、新政府軍から『逆賊』として扱われた会津藩。新政府軍の攻撃は会津各地そして鶴ヶ城にも広がり、籠城戦になった際に八重は髪を断ち、男装し、スペンサー銃を持って銃撃戦に参加します。のちに『幕末のジャンヌ・ダルク』とも呼ばれるようになったゆえんは、こんな姿からきているのかもしれません。また、白虎隊に操銃を指南したのは、銃術に心得のあった八重だったともいわれています。

八重の兄・覚馬

覚馬は9歳で日新館に入学。覚馬は剣、槍、馬術など武芸にすぐれた才能を発揮し、成績優秀者として江戸遊学というチャンスを得ます。江戸遊学では、西洋式の砲術や蘭学を学ぶだけではなく、江戸にのぼってくる各藩の優秀な人材にも接触し、国家という意識、世界のなかの日本という意識に目覚めました。 それまで会津しか見えていなかった覚馬にとって、江戸遊学は人生の転機だったといえます。成長し会津に帰った覚馬は、母校日新館の教授に任命され、蘭学所を日新館内に開設。会津の人材育成に努めました。
八重は覚馬を心から慕っていました。八重が女性ながらも広い視野を持ち、志高く生きたその背景には、この優秀な兄が大きく影響しているに違いありません。
覚馬の65年間は、八重を動かし・会津を動かし・京都を動かし・日本を動かした。自身の眼や足が不自由になり行動が制限されようとも、彼の考えは常に未来を見据え、留まることがなかった。戊辰戦争で散った仲間達の死を無駄にしないためにも、日本の未来をより良くしなくてはならない―そんな想いもあったのだろう。

会津藩士の精神 ~日新館と八重~

会津藩では10歳で日新館へ入学する以前に、同じ地区に住む6~9歳までの藩士の子どもたち(男子のみ)が10人前後のグループを結成。その集団を「什」と呼び、その中で守らなければならない決まりを定めたものが「什の掟」でした。

会津は、日新館が設立されるほど教育に熱心な土地でしたが、日新館に入れるのは男子だけで、女子に対する教育制度はありませんでした。女子である八重は、通常「什」に交ざることはできません。しかし、兄・覚馬や弟・三郎は「什」に属し、日ごろから厳しい「什の掟」を実践していました。それを知っていた八重。彼女の心にも、”会津藩士の精神”が息づいていたに違いありません。

「什の掟」
一、年長者(年上の人)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。


幼少期から非常に活発で、男まさりな性格だった八重。裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、特に実兄の覚馬からは洋式砲術の操作法を学びました。飯盛山で自刃したことで知られる白虎隊。彼らに操銃を指南したのは、銃術に心得のあった八重だったともいわれています。

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「真面目で実直。我慢強い」今も昔も”会津人気質”といえば、こう表現されるほど。会津藩出身で”幕末のジャンヌ・ダルク”そして”ハンサムウーマン”と呼ばれる新島八重。彼女の中にも、そんな会津人の精神が宿り、行動力の源になっていたのです。

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日新館では坐禅や弓道など様々な体験ができます。また、「什の掟」などの講話も聞くことができます。

八重は、西洋の学問、武器のエキスパートとして生きていくことを認める「柔軟性」、次の時代に必要なものを見極める「先見性」のあった父、兄の影響を強く受け、後にキリスト教に入信し、クリスチャンレディとして女性が活躍する時代を先駆けました。

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八重は茶道(裏千家)の指導者としても活躍しました。日新館では茶道体験をすることができます。


ゆかりの地や物

八重生誕の碑
八重は、会津藩の砲術師範役であった父・権八と山本家という武家で生まれ育った母・佐久の子として、現在の会津若松市に生を享けました。

■住所:会津若松市米代2丁目(地図


八重の書
福島県立葵高等学校(旧会津女子高等学校)には八重の直筆の書が4点あり、80年以上も大切に保管されてきました。掛け軸3点、扁額が1点あります。

■住所:会津若松市西栄町4-61 葵高等学校(地図


八重の先祖が眠る山本家の菩堤寺 大龍寺
寛永20(1643年)、保科正之が会津に移封された時のお供寺のひとつ。寺に残る文化年間からの過去帳によると、山本家も八重の高祖父の時代から、ここを菩提寺としていました。

■住所:会津若松市慶山2-7-23 (地図


山本権八の墓
会津藩の砲術師範役であった権八。戊辰戦争中の「一ノ堰の戦い」で命を落としますが、若いころは、才能ある者にだけ許可される江戸への『傾き修行』に、藩を代表して行ったほどでした。

■住所:会津若松市門田町一ノ堰字村西500 光明寺(地図


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